ビバハウスだより(過去ログ)
(2003年以前のビバだよりです)
26 収穫祭に若者たちが初出演(2003,11)
25 支えられて迎えた3周年(2003,9)
24 2回目のロングホームルーム(2003,7)皆と一緒にやっていけないので僕はビバを出ます」O君の訴えにどう応えたらいいのか?(その2)
23 「皆と一緒にやっていけないので僕はビバを出ます」O君の訴えにどう応えたらいいのか?(その1)
22 もう一つ新しい椎茸園ができた(2003,4)
21 今年のビバのお正月は1月25日 (2003.2)
20 ビバハウスのクリスマス (2003.1)
19 若者たちが語りだした!(2002・11)
18 ついに椎茸が出来た!(2002/10)
17 初めてのロングホームルーム(2002/9) 
16  近づくビバ設立の日・9月1日(2002/8) 
臨 ビバハウス一泊大旅行を今年も敢行!(2002/7) 
15 苦悩の春を乗り越えて(2002/6) 
14 北国の春、8人のそれぞれの春(2002/4)
13 「しんぶん赤旗・日曜版」でビバハウスが全国に紹介される(2002/3)
11 寝正月(2002/1)
10 ビバと私の救いのエンジェル〜突然の可愛い 来訪者Yさん(2001/10)
9 ビバと私の救いの主  ─今輝く池田賢吾君─
8  そして、誰もいなくなった(2001/9)
7 予期せぬ出来事(2001/7)
5 バイトが決まった(2001/6)
4 合気道開講(2001/4)
3 若者たちの春(2001/3)
2 若者たちの笑顔を誰よりも喜んでくれた人
     岡本正己さんの急逝を心よりお悔やみ申し上げます(2001/2)
1 若者たちに働く場を(2001/1)
  ご挨拶 交通のご案内
  ビバハウスの生活 ビバPhotoアルバム(随時更新)
  ビバハウス便り(毎月更新) ビバハウス便り(過去ログ)
  トピックス(随時更新) ビバ活動日誌(随時更新)

 
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26 収穫祭に若者たちが初出演(2003,11)
                      
 10月13日はビバハウスも属する余市教育福祉村の年に一度の収穫祭。数日前から天気模様が気になった。案の定、9日、10日、11日とお天気だったけれど、12日の午後には雨雲が空を覆い、ついに夜半過ぎから音を立てて降り出した。ビバの大勢の若者も協力して、
雨の場合も想定し、ビバハウスに近い大型農業倉庫を整理していたので事なきを得た。
 ビバハウスにとって、収穫祭参加3回目の今年は、画期的なものになった。若者達は、これまで人に傷つき、対人恐怖に陥り、見知らぬ多数の人の中に身をおく事ができない者が大半だった。ビバの生活の中で、今回は自分達も「村のお祭り」に参加してみたい、お祭りならば自分達も何か出し物に出てみたい、そんな気持になってきていた。
 でも、いざ、誰が何にとの具体的な話になると尻込み。そこで私が一言。“T君が得意なあの歌をやってみよう、F君も一緒にやって盛り上がったら尚いいね。”T君、“本当にやるんすか?本当にやるんすか?”F君、“ダメですよ、ダメですよ!”見ていた皆からの大きな拍手、2人は出ることを決意した。それからT君、F君は猛練習。最後はミーティグの時に2人に拍手で決意を促したメンバーも参加して駅前のカラオケ・スタジオで総仕上げの練習。その甲斐あって、当日の本番では2人の呼吸もピッタリ、最前列の小さな子供達がリズムに乗って踊りだすほどの出来栄えであった。これがヒップポップだ!イェーイ!
 もうひとりの出演者は、釧路から来たM君。尾崎豊の曲が自分の内面を一番語っていると言う。ビバハウスを知り、これまで2度自分ひとりで訪ねて来て数日づつ滞在し、自分を変える努力をして来た。小学校、中学校の担任から“おまえはダメなヤツだ”と言われ続け、極度の教師不信、大人不信に成り、言葉を失い、苦しんできた若者が自分の心を歌ったのだ。当日の出演が決まってからも、極度の緊張で食事が取れなくなり、体に痙攣が走るとも訴えていたが、ギターを持って聴衆の前に立つと、彼の口から語りの言葉が出た。「僕は引きこもって人の前で歌うような事は全くなかったけれど、今日は皆さん僕の歌を聞いてください。」「Scrap Alley」に引き続く「シェリー」では、静まり返った会場いっぱいに彼の「豊ばり」の独特の声が響き渡った。
 今回の祭りには、ビバハウスから飛び入りも出た。手話で「翼を下さい」をやりたいという話は聞いていたが、体調の整わないK子さんには、正直無理はして欲しくないとの思いもあり正式な申し入れはしないでいた。会場の雰囲気が良かったせいもあって、自分から名乗りをあげたのには驚かされた。K子さんは短期大学の専攻科を卒業し、民間病院の経営するホームヘルパー派遣事業所で4年間主任として働いてきたが、過酷な労働条件のもとで余りにもがんばりすぎた為、身も心もボロボロに成り、入院した。退院後も後遺症で、職場復帰が出来ない為、再起を期してビバハウスの生活を選んだ。自律神経失調症のため、来た当初は、まっすぐ歩く事も、字を書く事も難しかった彼女が歌うという。曲が終わり、大きな拍手を浴びて“ビバでの思い出がまたひとつ増えました”と涙ながらに挨拶。                   こんなに大勢の人たちとわずか3年目で収穫祭を楽しめるなんて、まるで夢のよう!
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25 支えられて迎えた3周年
(2003,9) 
 ビバハウスへ通じる小径にイガグリがボロンボロンと落ちている光景に秋を感じつつ先に進むと、ビバハウス正面の案内看板前にはワインレッド、白、ピンクのコスモスが風にゆれながら咲いている。その姿のかわいらしいこと。道路ぶちの猫の額ほどの花壇に少しずつ植えた草花も育ち、3年という時の流れを感じさせてくれている。9月1日の創設記念日を迎える心境は、一概には表現できない。ただビバの若者達はこの日を迎え、それぞれが個性的に、そしてしなやかに自分の行き方を形作りつつあることだけは確かだ。
 2人の若者は、6月から8月末まで、毎日8時間、仁木町のしそ農園でびっちり働いた。若者のひとりは、ボランティアではなく自分の責任がはっきり分かるアルバイトをしたいと農家で8時からの仕事を始めた。仁木町の椎茸園へは、引き続き2名の若者が訓練生として自転車で通っている。4名のボランティアが毎日村の農園やビバに関係した場所で汗を流している。
 余市町の椎茸園の訓練生になるため、努力を開始した若者もいる。このような取り組みをしながら、4名の若者は2人のビバハウス・ボランティア・メンバーと共に、北星余市高校前の特別養護老人ホーム・フルーツシャトーよいちが主催する2級ホームヘルパー養成研修講座に毎夕3時間参加している。極度の神経症やホームヘルパーで挫折したり、自営家族の1員としての心労に耐え切れなくなったりして、今はすぐには外に出れないメンバーもそれぞれに再起を期して自分に一番ふさわしい生活の仕方を作り出しつつある。
 
創設時からのビバメンバーSさんは念願どうり女性だけのグループホームへの入居を果たした。利用者や周囲の人々と揉め事だらけで、何度も“ビバ謹慎”を受けたO君も、その度に大阪から駆けつけたやさしいがしっかりした姉さんの涙に救われて、28歳の北星余市高3年生を今日まで無事勤めている。彼は卒業後、仁木町の岩田椎茸園の後継者になるべく遂に高校卒業の決意をしたのだった。この4月に、TBSで“ヤンキ―母校に帰る”(北星余市高・義家弘介教諭32歳の少年期から母校北星余市高の教員になるまでを追ったドキュメンタリー番組)が放映されてから、彼の元担任安達俊子が責任者をしているという事でビバハウスへの全国からの問い合わせが激増した。
 
つい最近4日間の試験入所を終えて東京へ帰った女性は、短大を卒業しているがもう一度北星余市高校に入学したいと言う。なぜ極度の対人恐怖に落ち込んだのかを何度か語ろうとしたが「短大の時――」で口が震えて、途切れてしまった。最後の晩、意を決したように彼女は語った。ある日突然警察に呼び出され、彼女の友人が窃盗を働いたのは、彼女に脅迫されたからだと言った為、事実かどうか厳しく調べられたという。友人に裏切られ、恐ろしくて人と話が出来なくなってしまったが、今まで両親にも話せず、2年半1人で悩んできた。義家先生の講演を横浜で聞き、自分の青春を取りもどす為、どうしても北星余市高へ入学したいと思ったが、ビバハウスの事を知って、集団生活への予備訓練を受けたいため来たと、一言一言涙をこらえ、しかし決意を込めて語った。東京に帰ったら、必ず両親に事実をはなして、希望をかなえるために頑張るよう励まして、送り出した。翌日「無事家に着きました。両親にいうのには少し時間がかかりそうです。」との電話。ビバに来た時とは違い、はっきりした声の調子に彼女の心の変化を感じた。
 
9月3日ビバハウス3周年をお祝いするかのように大きなプレゼントを頂いた。2人の若者が働いていたしそ農園の社長さんのご斡旋で、ビバハウスからわずか3・5キロほどの場所、約7町歩(7万平方メートル)の農地を、ビバハウスで管理してもらいたいとの申し出で、今後の活用についてもビバの条件に合わせてくださるとの夢のような申し出である。所有者の京都の産婦人科医T氏からも丁重なじきじきのお電話があった。神は供えてくださる!ただ感謝!
 
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24 2回目のロングホームルーム(2003,7)
皆と一緒にやって行けないので僕はビバを出ます〜
О君の訴えに、ビバハウスはどう応えたのか(その2)
 
 ビバハウスという所は、若者たちがいつまでも留まる所ではない。ひと時、疲れた心と体を休め、充電を図り、それぞれが目指す道へと進む準備をする場所。其れに要する時間は様々。自分の目標が達成できたら卒業できる。過去にはビバに滞在して1ヶ月、いやそれどころかわずか3日間で自分を取り戻した例もある(ビバハウス便りbP5参照)。だからビバハウスは出入りが激しい。
 O君が再びビバハウスに帰ったときには、その間既に4名が去り、4名の新しい仲間が加わり、全体のメンバー構成にも大きな変化が生まれていた。その上、集団的力量にも大きな前進が生まれていた。自分の事で精一杯、他人の事は見えない状態から大きく発展し、共に苦しみを分かち合い、共に1歩前進しようの状態へ。O君はビバ内の雰囲気の違いに戸惑い、自分は一緒に生活すべき存在ではないと考えてしまったのだ。
 
やり直しの認められる自分づくり、やり直しを認められる場所作りを目指している私達にとってまさに願っても無い、勝負のかけどころだった。即座に、ビバのこれまでに蓄積してきた集団としての教育的力量、問題解決能力に期待して、第2回目のロングホームルームをひらく事にした。
 もちろんO君とは事前に話し合い、まず自分の口で今の苦しい思いを語ってみる事、その上で一人ひとりから意見を出してもらう事で同意を得た。5月8日(木)の夕食後に決行。“皆が真剣に受け止めてくれる事を信じて、O君からの訴えをこれから行います”との私の言葉に、全員ただならぬ事と受け止めた。O君が立ち上がった。最初の一言が声に出にくいO君は、頭を振り、体をくねらせ、何とか胸の思いを声にしようと必死だった。皆じーっと待った。“僕は―――人と話すのが下手で―――自分には集団生活というのは無理でした。最初から気付くべき事でした。皆に迷惑をかけるので5月いっぱいでビバを出ます”。私は皆に感想と意見を求めた。
 F君 僕も10年間引きこもっていて、親以外とは誰とも話していなかったのでO君の苦しみはよく分かります。ビバヘ来た時も、緊張していたけれど、周りの人が話し掛けてくれたので、自分も話せるようになった。O君も必ずいつか皆と同じ様に成れると思うので頑張ってほしい。
 M君 初めはビバの人たちの目が怖かったし、ここでやれるのか僕も心配だった。もともとひとりの方が良くて、アパート暮らしもした。数ヶ月誰とも話さずにいたら、気が狂いそうになった。孤独ほど恐ろしいものは無い。O君はひとりの方が良いのかと思い、これまで声もかけなかった。ひとりが好きなのは悪い事ではないが、皆としゃべった方がもっと良い。いやな事もしゃべると忘れられる。O君からも少しでも声をかける気持をあらわす事も大切だと思う。
 N君 話は何も楽しい事ばかりでなくて良い。悩んでいる事や、苦しんでいる事も話して、少しでも分かって貰えると良い。コムニケーションは挨拶からだと思うので、まず朝会った時の“おはよう”から始めればよいと思う。
 R君 皆それぞれに悩みがあるから分かり合えるのだと思う。緊張しないで、すこしずつでも話して行こうよ。
 Y君 O君と話してみたいが、何時も食事が終るか終らないうちにいなくなってしまう。君もみなと話したいならこれからは少しは皆と一緒にいて欲しい。
 
 これらの他のメンバーからの暖かい、しかしきっちりとO君への率直な要求も込められた意見を聞いて、O君の表情も和らぎ、“努力して、ここにいて頑張ってみます”としっかりした声で応えた。それから数日後、夕食後の団欒で、集団ゲーム「人生ゲーム」に集中しているO君の姿が見えた。
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23 皆と一緒にやっていけないので僕はビバを出ます〜
O君の訴えに、ビバハウスはどう応えたらよいのか(その1) 
 
 6月に入り、自然界は春から初夏へと徐々にその様子を変えつつある。ビバの若者達の成長、発達の変化もまた然り。徐々に徐々にである。まるでらせん階段を少しずつ上がるが如しである。
 O君は最初の音を発音しずらい傾向があり、中学校時代、日直当番になるとクラスの人の前に立ち、“何か気付いた事がありませんか?”と問い掛けなければならず、緊張すればするほど声が出ず、どもってしまう事で人前に立つ事が恐怖となってしまった。最初は日直当番の日だけ休んでいるうちに、何時の間にかずっと学校へ行けなくなった。
 不登校経験者も受け入れる北星余市高に入り、寮生活をしながら真面目に学校へは通ったが人間関係はつくれず卒業。そのことが卒業後に就職した先でうまくやっていけない事につながった。自信をなくして家に引きこもって4年。このままではダメだと思っていた時に新聞でビバハウスの事を知り、行ってみようと思ったと言う。
 そんなO君もビバヘ来たばかりの頃は、いつも下ばかりを見て、声をかけてもうなずくだけの無表情。話し掛けても返答は得られずYesかNoに関した事のみ、うなずいて意思表示。顔に表情はなく、常に人目を避けていた。家を離れて集団生活にストレスを溜め込んだ彼は遂にビバハウスを抜け出した。夏の天気のよい日だったので夜の門限までには帰ってくるのではと希望を持ちつつ待ち続けた。ところが−−−
 真夜中余市の町を夫と二手に分かれて捜した。駅、公園、飲み屋街と明かりのある所全て。そして真っ暗な海も。一睡も出来ず待ちつづけて朝5時札幌のお父さんから電話が!気が付かないうちに帰って、自分の部屋で寝ていましたと。彼にとって救いは家族。これまでにも家族の絆が彼に最悪の事態を招かずに、彼の心を支えてきた。
 O君と私達の心の切り結びが可能になったのはこの時からだった。彼はポツリポツリと心の中を語ってくれるようになった。友達を作れない苦しみ、働けない自分、何も出来ない自分、皆に迷惑をかけることしか出来ない自分に嫌気がさして、何度も死のうとした事などなどーーー。彼の心を占領し、体を動かなくさせているこうした苦しみからの解放への取り組みがこの時から開始された。
 
 仁木町椎茸園への自転車での通勤―――生活のリズム、体力作り、皆との協力、共働の関係が少しづつ作られるようになった。ビバハウスには来客が多い、そのたびに各自自己紹介をし合い、時には代表としての歓迎の挨拶もさせられる。O君も和歌山大学の学生の皆さんの視察団を迎えての歓迎挨拶をしっかりとやり抜いた。
 こうして彼はビバに関わる多くの方がたの見守りに励まされながら、一つ一つ自信を取り戻して1年3ヶ月たった時に、自らビバ卒業の申し出をしてきた。それから約1年、自宅へ戻り建設会社で社会参加の訓練をつんだ。社会との関わりの中で改めて自分の力不足を実感し、“ビバにもう1度戻ってもいいですか?”とTelして来た。ことし5月からO君は再びビバで自分の新たな課題―――人並みに働ける体と心をつくる――に向き合い努力している。
 やり直しの認められる自分ずくり、やり直しを認められる場所作りに、O君は私達と共に励んでいる。ところがその彼が、「どうしても皆と一緒には暮らしていけない」と訴えて来た。(次号へ続く)
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22  もう一つあたらしい椎茸園が出来た!(2003.4)
 
 数日前の雨がビバハウスの周りの雪をいっきに溶かし、春の装いに変えてくれた。ふきのとうがここにも、そこにも....。ビバでは今年の春を昨年にもまして嬉しい思いで迎えている。若者達が今年の冬は寒さに負けずに仁木町の岩田椎茸園で働き通し、自分の気力、体力に自信を持ち始め、もっと働きたいと言い出すまでになってきた。
 この事態に責任者の私は、嬉しい悲鳴をあげざるを得なかった。北海道の精神保健職親事業所の認定を受けている岩田椎茸園は、かっては6名の訓練生がいたが、現在は事業規模に見合ってということで、3名の訓練生のみに限定されている。希望や意欲をもち訓練生の条件も持ちながら、訓練生としては働く場がない。これまで7年〜10年と社会に出られず、働けず、家にいて親に迷惑をかけどうしだった。ビバハウスに来て、余りストレスを感じない所でなら、働きたいと思うようになった。せめておこづかい分だけでも親に負担をかけないように自分で働いて手にしたい。こんな思いを持ちながら、この冬は全くのボランティアに徹して、ご主人が入院中の岩田椎茸園で、黙々と除雪作業に取り組んできた。この若者達を目の前にして、この春には何としても彼らの願いをかなえてあげたいと何度夫とも語り合った事だろう!そのためには少々の困難があっても、新しい職場を必ず開拓しようと心に決めた。そんな時、余市の美園町の中岡椎茸園さんからお話が舞い込んだ。中岡さんはNTTを8年前に途中退職し、椎茸栽培を志したが、中国産椎茸の安売り攻勢に見舞われ、胃がんによる手術でほぼ全摘した体では、独自経営は困難と、町内の福祉施設と提携してきた。しかし先方の事情で提携も解消となり、このままでは経営を継続する事は不可能の状況に追い込まれた。ビバは若者の労働力と資金面と販売で協力し、経営はこれまで通り中岡さんの責任で継続する約束をした。この提携の最大の要因は、中岡さんご夫婦の誠実で実直なお人柄に私達夫婦も大変心を打たれたことだ。このかたがたならば、かならずビバの若者達を理解し、受け止めてくださるに違いないとの人間的な信頼が新しい職場づくりに私達を踏み切らせてくれた。中岡椎茸園は美園町の名前が示すとおりの美しい、見晴らし抜群のなだらかな丘陵の上にある。
 4月1日からは早速5,200本の原木への植菌作業が開始された。取り上げて頂いた朝日新聞の記事とビバのホームページでの「緊急ボランティア大募集」に応えて、千歳や札幌、遠くは東京都・神奈川からも問い合わせや応募の申し出を頂いている。毎日約14〜15人の人数で、様々な協力者の皆さんと力を合わせながら若者達は生き生きと作業に打ち込んでいる。今度はこの新しい椎茸園からどんな夢が開けていくのだろう。
 
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 21 今年のビバのお正月は、1月25日 (2003.2)
 
 今年の1月25日は、ビバハウスにとって、決して長く忘れることの出来ない日になった。一人の若者の命が、失われずに、両親のもとに戻った日となったから。
 昨年の年の瀬も迫った12月27日の事だった。道外から来ている29歳の青年が、メンバーの一人に“タバコを買いに行く”と言って、軽装で午前11時30分頃ビバを出たきり、昼食時間になっても、夕食時間になっても、門限の夜10時になっても帰って来なかった。このとき私の心配は頂点に達していた。彼は自殺願望が強く、既にビバに来る前に投身自殺を試み、失敗した経験を持っているとの事であった。ビバに来てからも、1日半にわたり部屋に閉じこもり、断食を図ったり、11月末には、無断でビバを出てから丸1日約40キロはある赤井川・ヤマハキロロリゾートへ、霙の中を歩きつづけ、遂に死にきれなかったと帰ってきた若者だったから。
 この時、家族の方にも来て頂き、三者で話し合った末、絶対に家には帰りたくないという彼を前に、二度と無断でビバを飛び出す事はしないという約束を交わし、再び共同生活を開始した経過があった。専門家の先生に相談したところ、「このケースは、また次にやります。自殺願望の強い人は死を絶対視しているので、その目的を達成するまでやります」との事。その対応策は?の問いに返答は得られなかった。彼に生きているって楽しい、そう思える体験を出来るだけ味わってもらうしかない。私は自分にそう言い聞かせた。
 このことをきっかけに、それまでほとんど自分を語らなかった彼が、堰を切ったように語りだした。私たちとも、ビバの仲間とも。話のはしはしから、彼自身の心を占めている大きな問題は、家族関係であることがわかってきた。見捨てられ感が強く、「家族ってなんだろう」と考えると、いつもマイナス思考に陥っていった。夜中まで話しつづけ、こんな自分は、躁鬱の気があるかもしれないという彼に、是非一度、信頼できる精神科の先生に相談しに行こうと説得したが、「いやだ」と言って受け付けなかった。そして遂に今回の出来事に・・・・。ご家族と相談のうえ、2回目の捜索願を出した。
 暮れの30日、ビバの若者達は、まだ帰らない彼の事を心配しつつ、年末年始の一週間のお休みに入った。ビバハウスに残ったのは私と夫と、昨年12月1日からボランティアスタッフとして一緒に生活している紀子さんの3人。お互いに語らずとも帰らぬ若者の事でいっぱいな事が伝わってくる。いつ帰ってきてもいいように3度の食事は用意した。夜は玄関の明かりを消さず、カギもかけずに過ごした。夜中、ちょっとした物音にも3人とも飛び起きて玄関先に向かう日々が続いた。心配と緊張の連続で、心身の疲れも極限に来ていた。他人の私達でさえこうなのだから、ましてや家族(特にお母さん)にとってはと思い、電話で励ましつづけた。
 そうした1月20日、警察から電話が入った。積丹沖で水死体があがったので、照合のため彼の部屋の指紋を取らせて欲しいと。全身の力が抜けそうになったが、若者達に動揺を与えないように最大限の配慮をしつつ、最悪の事態を迎えるかもしれないその時の備えを迫られた。専門家にも対処の仕方について助言をあおいだ。余市に駆けつけたご両親と私達、若者達とで本人の語った話を出し合った。後に明かしてくれたがこの時、お母さんは息子が生きていると確信していたと。お金もないし着るものもない。遠くへは行っていないはず。札幌あたりにいるのではと、帰路に向かう前にかすかな望みをかけて札幌駅近辺のホームレスの人たちの溜まり場や地下街を捜した。すると地下街のベンチに腰掛け、カップめんを食べている若者の姿、もしかしたら息子ではと吸い寄せられるように近づいていった時、ふと顔を上げたその若者がまさに自分の息子だったという。うれしさを隠しきれないお父さんからの電話。これと時を同じくして警察からは指紋が違っていたと言う連絡。亡くなった方には申し訳ないが、「よかった、よかった!」しかも、見付けたのはほかでもないご両親、これまでの彼との関わり方を見つめ、改めようと考えているご両親に見つけ出された事。地方都市とはいえ、200万の都会札幌で。奇跡的とも言うべき邂逅。
 この日1月25日、ビバハウスにやっとお正月が訪れた。
 さあ、大幅遅れの年賀状。この紙面を借りて
「明けましておめでとうございます。
旧年中はひとかたならぬおせわになりありがとうございました。
本年もまた、よろしくお願い致します」。
 先日、お母さんから電話があった。自宅に帰ってから、お父さんのそばでコンコンと眠りつづけたという。1ヶ月飲まず食わずの生活で栄養失調に陥っていたが、通院しながら体力の回復を図り、暖かくなったら家族みんなでビバハウスに挨拶に行きますと。
 
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20 ビバハウスのクリスマス (2003.1)
 
 ビバハウスでは,開設以来クリスマスイブにささやかな祝いの会を行ってきた。この世に平安と世界の平和を願い,併せて一番身近なビバの仲間達がお互いに仲良くなれる取り組みを目指してきた。今年はどんなクリスマスにしたら良いかを,毎週のミーティングのたびに話し合ってきた。昨年好評だったプレゼント交換は,今年は若者達の財布が乏しいという事で取りやめにし,頭と体を使ってのゲームで大いに盛り上がろうという事になった。かくして12月24日の午後7時,教育福祉村の理事長菊地大先生をはじめ8月末から毎日昼食作りのボランティアをして下さった大沢美智子さん(北星余市高1期生)、小樽からの通所者木村友紀ちゃんんと母さん、静岡からわざわざ私を助ける為にボランティア・スタッフとして,12月1目から頑張ってくれている水野紀子さん(北星余市高23期生)を交えての第3回ビバハウス・クリスマスとなった。
 祝会は,友紀ちゃんのキーボードの伴奏で「きよしこの夜」を全員で歌い,尚男おじさんの昨年と同じ個所の聖書朗読を聞いた。「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず,倉に取り入れることもしない。それだのに,あなた方の天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも,はるかにすぐれた者ではないか。だから、明日のことを思い煩うな。明日のことは,明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は,その日一日だけで十分である。」(新約聖書・マタイによる福音書6章26,34節) いよいよ第2部は,お待ちかねのゲーム大会。まずは体を動かすゲームから。ペットボトルを使ってのボーリング。次は頭の体操。大統領と副大統領。トントン・1と3、トントン・3と10、数字を使っての単純な遊びだが,程よい集中力と緊張感が要求され,これがまた面白い。次は日本バス友の会会員の鈴木林太郎君によるバスクイズ。これが中々難しく正解者が出ない。その次はダーツ。これもまた中々狙った通りにはいかない。最期は名(迷)作家紹介とネーミングした文章作りゲーム。いつ、どこで,誰が,何をしたか一をリレー式で書いていく。出来上がった文章を発表。大爆笑。お腹も,心もたっぷりと満たされて,クリスマスは終了。翌日の朝,ビバに来てから2ヶ月の36歳の若者が,わざわざ言云いに来てくれた。「これまでの人生,ず一と対人恐怖症で苦しみ,集団の中に身を置くこと自体が苦痛で,今回のクリスマスも参加するかしないかでずい分迷ったけれど,ビバに来て,何事も挑戦と自分に言い聞かせ,初めて遊びというものを体験した。おもしろくて、たのしくて!!。興奮で昨夜は一睡も出来なかった。朝食を食べたら、ぐっすり寝ます。」


19若者たちが語りだした!(2002・11)
 
 外は雪。壁に取り付けられている換気扇の隙間から、時折、ピューと言う音。外の風の強さと冷たさが伝わってくる。つい最近家族の一 員になった子猫のラミちゃんが小さな頭を摺り寄せてくる。ああ、いよいよ冬に向かう。昨年の冬、ビバの若者達は外にも出ず、春までじーっと我慢の子の生活を送った。でも今年の冬は違う。そんな予感がする。人と話すのが好きになった。対話の時間がどんどん長くなっている。言葉のキャッチボールを楽しめるまでになった。事実こんな事があった。この秋に村のログハウスで、「ビバハウスについて」をテーマにして、札幌学院大学の富田ゼミの皆さんが宿泊研修をされた。その中の6名の女子学生の皆さんが、最近ビバの若者達と交流をしたいと、わざわざ訪ねて来て下さった。やさしい声、にこやかな笑顔での呼びかけに誘われたのか、若者達が一人またひとりと自分の部屋から出てきて話し合いの輪に加わった。6名の内3名の方が沖縄の出身と聞いて、若者達は、初めの内“沖縄に行きたい、行きたい"で盛り上がった。その内、誰が言うともなく、自然の形で自己紹介が始まり、著者達が一人ひとり、自分の事を語り始めた。なぜ自分はビバに来たのか。今何をしているのか。自分の夢は。これまでお客さんが来ると、挨拶もそこそこに、クモの子を散らしたように皆自分の部屋に入ってしまう事が多かったので、同席していた私もおじさんも目を丸くした。
 A君:家にこもってただ食べてテレビを見るだけの生活でこんな巨体になってしまった。涼しい北海道で汗を出し、体をしぼってきなさいと親にいわれて来ました。毎目片道10キロの道を自転車で通い椎茸園で働いています。体作りをして将来は大型車の運転をしたいです。
 B君:北海道が好きだし、自分を鍛えたいと思って来ました。今は自動車学校に通っています、将来は福祉施設の送迎バスの運転をしたいです。
 Cさん:毎目小樽の病院のデイケアに通っている。竹篭を作ったり、調理実習をしたり、杜会見学に出かけたりで楽しい。ビバにはいない同性の友達も出来た。
 D君:長野市で風俗バーのマネージャーをやっていたが、ストレスが溜まり、耐えられなくなって、ビルの屋上から飛び降りようとしたが、通行人に警察に連絡され保護された。札幌の実家にも落ち着けずビバに来た。ビバに来たお陰で、統合失調症の治療の為入院する事が出来た。精神を安定させ体力をつけて、長野にいる彼女といずれは結婚したい。
 E君:札幌の進学校に入ったが男子校特有の陰険ないじめに合い、3年の3学期で退学した。父親から学校に行かないのなら働けといわれ、履歴書を送ったところまでも含めれば、およそ100社を受けたが、全部だめになった。極度の対人恐怖症で7年間引きこもってビバに来た。僕の事を巡り父と母の関係もまずくなり、一時母が家を出たこともあり大変だった。父はただ横暴だと思っていたが、最近父の気持も少しは理解できるようになった。家族との関係も良くなり少しずつ自信がついてきたので、北星学園大学杜会福祉学部への進学の夢を必ず果たしたい。
 F君:人との付き合いがうまく出来ず、いつも他人を傷つけてしまうので、自分を変えるため、親戚が俊子先生のテレビを見て、薦められたので勉強の為、ビバに来た。自分は高校を2度退学しているので、この余市で高校を卒業したい。
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18 ついに椎茸が出来た!
 
 10月4日、待ちに待った椎茸の初収穫。園主の岩田さんが会心の笑みをもらすほど、茎の太い、色艶の良い、それは見事な椎茸が出来た。
 朝食を済ますと、ビバの若者の大半が、毎日片道10キロの道のりを自転車をこいで、雨の日も風の日も、隣町の椎茸園に急ぐ。昨年の10月からちょうど一年間若者たちの奮闘は続いた。 長い厳しい冬の日は、さすがに自転車は無理なので、一日欠かさず夫の自動車で、雪で大切なハウスをつぶさないために、除雪作業に通った。20数年の厳しい労働のため、思うように動かなくなった肩の手術を受けた岩田さんの札幌の病院からの指示を受けて、皆で毎日全力をあげた。
 3月には、余市教育福祉村の菊池理事長を先頭に大勢のボランティアの皆さんの応援も受けて8千本の楢の原木に植菌をすることが出来た。 それ以後9月末までの毎日は、岩田さんの指導のもとに、椎茸菌を原木の隅々まで満遍なく発生させるための天地返し、散水など、あらゆる作業の連続だった。若者たちは、真夏の太陽に照らされながら、10キロの道のりに負けず、暑いハウス内の作業にも耐え、見る見る逞しくなっていった。本当に椎茸園があった良かった。朝起きると今日やれる仕事がある、この喜びが若者たちをこれまでではとても想像できなかったほどの困難に打ち勝たせたのだ。
 この初収穫を、私たちと同じ様な気持ちで待っていてくださったのが、北星余市高校に一番近い郵便局、余市大川郵便局の皆さんだ。北星余市高校の卒業生が参加して作った椎茸をぜひ全国の卒業生や父母の皆さんに「ゆうパック」でお届けしたいとの申し出。
 昔ながらの原木栽培の椎茸は、無添加・無農薬の安全な食品としての価値が見直されている。これまでご支援いただいた多くの皆様に、ビバの若者の努力の成果をぜひ味わっていただき、若者たちを励ましていただきたい。
 「ゆうパック便」は、全国の郵便局で、「ふるさと小包専用振替用紙-加入者名:味覚友の会、振替番号02700-9-31125」で「余市大川郵便局のビバ椎茸」として扱われ、価格は1.25`(300グラム4パック)で、北海道内3,000円、道外3,300円です。
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17 初めてのロングホームルーム
 
 2年前のビバハウス着工と同時に、家族の一員となった犬がいる。ビーグルとハスキーの混血だ。純血を守れなかったためだろう、離乳と同時に北星高校の校門前に捨てられ、生徒たちが拾って自分たちのお弁当を噛んでやわらかくしては与え、学校の中庭で育てた犬だ。皆に可愛がられた分、人なつこい。人に出会うと、前足をあげて誰にでも万歳のポーズをして抱きつこうとするところから、ビバと名づけた。今ではビバハウスのマスコットだ。ところが先日、夜遅くにビバが突然鳴きだしたため、うるさく感じて頭に来たのだろう。ビバハウスの若者の一人A君が外に駆け出し、大声で怒鳴りながら殴る、蹴るの暴行をビバに加えた。その様子を窓から見たB君はそのあまりの激しさに恐ろしくなり、私たちに次のように訴えてきた。
 A君のビバに対する行動は常軌を逸している。彼は日頃、精神科にかかっている自分たちの事をバカにして、俺はあいつらのような出来損ないとは違うと言っている。これまで何か面白くないことやイライラしている時には、暴言を吐いて人に当たってきた。今度はビバにやったと同じ様に僕たちに暴力をふるうかもしれない。恐ろしくて一緒には生活できない。
 B君は高校時代のいじめが原因で、極度の対人恐怖症に陥り、これまで長く人との関係を絶ってきたが、ビバへ来て人生ではじめて友達と言える人に出会い、少しづつ気持ちが溶けて来ていた時だっただけに、A君の行為は他人より強烈に感じたに違いない。動物虐待に終わらず、次には人間に向かうかもしれないと言うB君の恐怖感をどうしたら取り除けるのか?
 事実A君はこれまで口が災いして何人もの人を傷つけてきた。そのたびに私たちは彼のそういう内面の変革を迫ってきた。注意だけではすまされず、一年間に2階の謹慎に入れ、対話を重ね、反省文を書かせ、自分の問題点を見つめさせ、改善する事を迫ってきた。私たちとA君の縦の関係だけではA君を変えることは不可能かもしれない。これが私たちの実感だった。若者たちも徐々に力をつけ、自分の意見を人の前でいえるようになった。さらには、人の前で勇気をもって他人を批判できるようにもなった若者達の集団。緊急かつ重要な会議とあって、みんな緊張気味だった。B君のA君に対する問題提起から始めた。A君に対する恐怖感が根拠をもって皆に理解されるものだった。次にA君に事実の説明を求めたが、しどろもどろ、あいまいなもので、何人もの者に追及されて、やっと暴行の事実を認めた。全員の意見を求めた。C君からは、日頃A君から食べ物のこと、椎茸園での仕事のことでいじめられ、ビバに来て一旦治った拒食症に再びなりかかっているとの訴えがあった。D君からは、人を癒す役割を持つビバに暴力をふるうことは絶対に許せない。E君からは、ビバはうんちやおしっこなど理由のある時しか鳴かない犬だから買主の責任でもあるなどの意見が出された。A君に対してはこれまで以上に厳しい態度で臨んでほしいというのが大方の意見だった。
 A君に対しては、シソ農園でのアルバイトを禁止し、8月末までの個室謹慎とした。共に暮らす仲間からの厳しい批判の中での今回の決定が彼を生かすものと確信している。
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16  近づくビバ設立の日・9月1日
 
 ビバハウス設立2周年、9月1日を間近にして、この2年間が、あっという間に過ぎ去ってしまったような、同時によくもこんなにいろいろな事を体験したなと思う気持ちが交錯している。男性1名、女性1名を受け入れてスタートした2年前、いつかはもうすこし受け入れることになるのかとの予感みたいなものはない訳ではなかったが、まさかこんなに速く、男性9名(うち試験入所者2名)、女性1名とボランティアスタッフ1名(男性28歳)、全部で11名の若者と生活を共にし、この他に毎日の町内通所利用者(男性19歳・北星余市高校卒)、週二回の女性利用者(道立高校卒・小樽市在住)が来るとは予想することも出来なかった。この間、1年の予定で入所した札幌のO君と、小樽の施設を抜けて来てビバでは短期間の入所ではあったが特に自立生活を強く望んだWさんをビバ初の卒業生として送り出した。
 私の心残りは、本人の意思に反して病気のため自宅に帰らざるを得なかった登別のYさん、入院生活を余儀なくされている札幌のKさんのことだ。Yさんについては、同じ様に自宅の生活ではあるが、ビバにくる前のときと比べるとずっと穏やかにすごせるようになっているとのことで、かすかに安堵しているが、8年間も自宅を離れて必至に頑張りぬいて病に倒れたKさんの全快をただただ祈るばかりだ。特別に嬉しいことは、ビバハウス便りに「ビバと私の救いのエンジェル〜突然の可愛い来訪者」(2001年10月)として紹介したOさんが、願い通りに北星余市高2学年に編入し、友達と仲良く元気に寮生活を送り、約束どおりお友達と夕食作りのボランティアに来てくれたことだ。多くの北星高校の生徒や父母の方々や卒業生に来ていただき、大好きな北星とのつながりが、学校を辞めても切れるどころか、ますます強くなっているのが私には何よりの喜びだし、元気の源だ。
7月6日、北海道寄宿舎教育研究会の皆さんのお招きで、札幌での第88回例会の報告者を勤めさせていただいた。今回は、引きこもりについての例会と言うことで北海道新聞に案内記事が載ったこともあり、会員以外の方々も参加した。私のビバハウスでの生活の実践報告後、実際に家族で問題を抱えている方々から、真剣な質問や悩みが出され、涙ながらに参加者が語り合い、励ましあうこれまでの例会とは趣の異なる、深まりのある会になったと送られてきた機関紙に書いていただいた。私自身、家族の引きこもりに悩んでいる方々が、わざわざ網走、旭川、恵庭、札幌、小樽など全道各地から参加された事に、あらためてこの問題の深刻さと層の厚さとひろがりを思い知らされた。
 寄宿舎教育研修会会員の皆さんの寄宿生に対する真剣で愛情に溢れた取り組みは、同会事務局発行の機関紙「おかえり」で初めて拝見したが、今回例会に参加させていただき、先生方のとりくみとビバハウスの取り組みには多くの共通点があることも学ぶことが出来た。共同生活を共にするメンバーから刺激を受けて、それぞれが成長の糧に出来るように、集団での学び合い、育て合いを大切にして、食・眠り・休憩や遊び・学習・労働などを通じ基本的な生活を立て直していく事を共に目指したい。
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臨 ビバハウス一泊大旅行を今年も敢行!
 
 昨年は5月の連休に函館への1泊旅行をしましたが、少し寒かったので、今年は6月にしました。6月15日午前8時半にビバを出て、翌16日午後7時に着くまで約750キロの大旅行でした。札幌のボランティア山下さん父娘さん、ボランティアスタッフの齊藤さん、そして安達の車3台に13人が分乗し(勿論昨年と同じく愛犬ビバも一緒に)、平均時速約100キロで日高路を駆け回り、芦別・滝川を巡り北海道の初夏を満喫してきました。
今年の旅の最大の目的は、定期的にもう何度も自家米を送ってくださる日高門別の農家の吉田さんにビバの若者の元気な姿を見て頂く事でした。これだけでも十分に旅の値はあったのですが、折角日高に行くのならばと、競走馬の厩務員になることだけを夢みる最年少16歳の真生君の為に日高ケンタッキーファームにも立ち寄る事にしました。
 芦別での宿は、山下さんのお計らいで、道勤医協芦別平和診療所の旧建物をお借りする事が出来ました。元病院の建物で、お化けが出るかもという話(うそ)で、びびっていた人もいましたが、わいわい楽しく過ごす中で、お化けも遠慮してくれたようです。
 カヌー体験をした滝川市の海洋センターのスタッフの皆様は、事前にビバハウスのホームページを見て、どうしたらメンバーに一番喜んでもらえるかを検討していて下さったそうです。宿でのゲームやカヌー初体験などを通して、新しいメンバーともお互いに気心が知れ、仲良くなれた大きなお土産を貰った旅でした。残念ながら今回は2名が参加できなかった為、次の時は全員が参加できる旅にしたいが皆の願いでした。
 そして最後のおまけは余市に帰って、T君が働いている蘭島のロビンフットで誕生会。
あくる日はみんな疲れきって「ねてよーび」。それでももう、来年はどこへ行くかの話題もしきりです。
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15 苦悩の春を乗り越えて
 
 太陽をいっぱいに受けた青葉が目と心にやさしい光を投げかけ、落ち込みがちなビバの若者達に生気を与えてくれた。おかげで寒暖の差の激しいリラ冷えの季節6月も、ビバの若者全員、お医者さんの世話にならずに乗り切った。春4月、5月、6月が一番つらいのはビバの若者達だけではない事を知った。この間に受けたいくつもの電話やファックスでの教育相談がそのことを物語っている。実際に遠路ビバまで足を運んだ若者もいる。
*I さん  早稲田大学法学部3年に在籍中の女子学生(埼玉県)。対人関係がうまくつくれず、ついに対人恐怖症に陥ってしまった。人に会うのがつらくて大学にも行けなくなり、苦しんでいた時、赤旗日曜版の3月3日号でビバの記事を見た。これまでの人生で初めて自分の意思で判断し(本人の弁)ビバ行きを決意、一年がかりで自分を取り戻したいと、まず2泊3日の試験入所に来た。すっかり自信を無くしていて、はじめポツリ、ポツリと話す声も消え入りそうだった。ところが、私達もビバハウスも記事で紹介されていた通りであることで安心感を深めたのか、それまで心と体をがんじがらめに縛り付けていたものを、自らの手で解き放って行った。ぐっすり寝て、余市のいい空気を吸って、ニッカを見て、海の幸・山の幸をたっぷり食べて、本格的人所準備の為、自宅に帰った。数日後、彼女からの電話、「元気が沸いて来て、大学にも毎日通っています。もし通えなくなったらまたビバに行っても良いですか?」。その声は明るく、しっかりとした口調だった。たった3日間の滞在だったのに、別人のようだった。私たちは笑いながら、”ビバ効果”は想像以上だねと語り合った。
 そのほか、一家全員でビバを支援して下さっている札幌のYさんがビバのホームページを開設(このホームページ)して下さつた事もあり、この1ヶ月ほどは、問い合わせと訪問のラッシュだった。
:J君 16歳 中学卒(埼玉県)。5月の末、父親と共に訪ねてきた。中学校の後半は不登校で、家庭内暴力もひどく、放置できない状態だった。唯一の夢は、競走馬の厩務員になることで、そのためビバに滞在しながら働かせてくれる日高方面の牧場を探している。
:K君 19歳、早稲田大学教育学部1年(千葉県)。高校時代はサッカー部で頑張り、大学受験にも成功したが、脱力感、さらに慢性の頭痛に苦しめられ、通学できなかった。2週間の試験入所中、余市神社祭りの奴さんのアルバイトにも挑戦、親しくしてくれる友達も出来た。日々新たな体験を積み、真っ黒な身体で実家に戻り、次に備えている。
:L君 28歳 元自衛官(神奈川県)。もともと繊細で正義感強く、潔癖症。自衛隊上官の非人間性に耐えられず除隊。全てに対し、無感動、無関心になってしまったと言う。「当たり前の人間になりたい」が現在の彼の唯一の願い。ビバのゆったりした毎日が彼を少しずつ癒しているようだ。
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14 北国の春、8人のそれぞれの春
 
 ビバハウスの道路をはさんだ向かい側に、老大木の桜の木があり、今年も見事な花を咲かせた。その素晴らしさにしばし見とれてしまったほどだった。ふとわれに返り、昨年の同じ時期にビバの若者たちから聞かされた、「自然界が生気に満ちあふれている春が、自分たちにとっては一番つらい時期だ」との言葉を思い出した。今年はそれぞれがどんな春を迎えているだろうか? ビバの若者8名の一人ひとりに思いをはせてみた。最初にビバにきた頃の顔も思い出しなから。
*Aさん(27歳) 自分の強い希望で、小樽の病院が実施しているデイケアに週4日間欠かさずに通っている。今では、ペアを組んでの夕食作り、ひとりでの朝食作りも出来るようになった。時間はかかるけれど、最後まで責任を持ってやり抜いている。
*B君(28歳) 美容院で、6ヶ月の訓練期間を経て、現在は仁木の椎茸園で訓練に励んでいる。7年間の引きこもりの延長で、外の世界には全く関心を示さなかった彼から、つい先日、部屋にテレビをつけたいとの相談を受けた。
*C君(33歳) 突然ビバハウスにかかってきた一本の電話が彼を再び立ちあがらせた。昨年のBSE(狂牛病)のあおりを受け、お客がばったり減ってしまったレストランから自宅待機を命ぜられていた彼に「客足も少しずつ回復してきたので、またぜひ働いて欲しい」と。首ではなかったのだ。過去に十数回首を切られて来た彼には信じられない事だった。
*D君(24歳) 仁木町の椎茸園に3月から自転車で通っている。「生きていても意味がない。なるべく若いうちに死んだほうが良い」からの脱出口は、期限を定めた目標への努力で切り開いてきた。今年の春にふさわしい素敵な笑顔が輝いている。
*Eさん(24歳) この春を一番厳しい状況で迎えている。「このままの私では世の中に生きていけないのでは?」「どうすれば、他の人のように気軽にお話できるようになるのだろう?」自分からすすんで精神科の医師にも相談し、会話練習のデイケアにも参加した。がんばりやさんの彼女にはこの間相当無理があった模様。内臓機能の回復を図るため、入院中。
*F君(29歳)北星余市から東京の理科系の大学に進学、さらに大学院をめざしたが挫折して、身も心もぼろぼろになってビバに来た。まともな食事をとること、きちんと寝ることを通して生活のリズムを確立しで来ている。椎茸園の訓練生としてもまじめさが評価されている。彼には椎茸栽培の科学的分析も期待している。過去の学習努力を生かすためにも。
*G君(28歳) 「人生の大学へあげたつもりで送り出しますのでよろしく」との父母の声を受けて大阪からビバに来た。自分が何の気なしに他人にぶつける言葉が、どんなにその人を傷つけることに成るかをいやでも学ばされる他人との共同生活。厳しい指摘もまともに受け止め、当初のように感情的に成らなくなった。親から譲り受けた勤勉性や持続性を伸ばし、期待に応えて、ビバの阪神タイガースの本領を発揮して欲しい。
*Hさん(26歳)小樽市内の施設から、自分の意志でビバに入りたいとやって来た。これまでは、つらく悲しいことばかりが多い人生だったが、人生万歳のビバハウスでは、自分の一番やりたいこともやりながら、自立の準備に努めたいと心に決めている。
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13 「しんぶん赤旗・日曜版」でビバハウスが全国に紹介される
 
例年にない暖かさの為か、ビバの鶏たちが今年は昨年よりも2週間も早く、3月5日から連日卵を生み出して私達をビックリさせたが、もっと強烈に私たちを今でも毎日ビックリさせているのは「しんぶん赤旗・日曜版」の威力だ。3月3日付の赤旗しんぶん・日曜版に私たち二人の大きな写真入で、それも表紙を開くとそのまま目に飛び込んでくる3ページ全面にカラーで、「ビバハウス」の記事が「人間賛歌」シリーズのひとつとして「引きこもり、不登校・・・ 自立願って〜夫婦先生“ビバ(万歳)ハウス”」として紹介された。(たまたまこの号の一面トップは例の「ムネオハウス」だったので、なおさら絶妙な紙面構成に成っていたのかも知れない。)
 「日曜版」が全国で配られ始めるや、3月2日朝起きると、「元気な二人の大きな写真を見て嬉しかったよ。娘も北星余市を卒業後自分の選んだ道で生き生きと頑張っている。これも、北星余市のお陰」との嬉しいファクスが、自分も卒業生の恵庭のお母さんから届いていた。これを皮切りに、紙面には、ファクス番号しか載せなかったが、案じた通り「もしや繋がらないかと思って」との電話もかかり始めた。埼玉県の21歳の青年の叔母に当たる方からは、高卒後警察官になったが、今は退職し、自室に引きこもっているが、両親も打つ手がなく苦しんでいるとの相談であった。記事に関する様々な反響が今も続いているが、「日曜版」に一番感謝しなければならないのは、「自家栽培・無農薬のお米」をドンと40キロも頂いた事だ。日高門別で畜産業をされている読者の方からだった。「ものすごく感動した。困難を負っている若者達においしいお米を腹いっぱい食べて貰いたい。苦しみも、悩みも半分になるから。」「自分が元気なうちは、続いて送らせて貰う。」とのこと、こちらこそ涙が出るほど感激した。実のところ食べ盛りの若者達にいつも十分なお米を確保するのには、人に云えない苦しみもあった。開設当初は、人数も少なく、常に大幅な赤字経営のため、食料費も限られていたので、10キロ2600円台の特割が出るのをチラシで探し、「お一人様一袋」なので、何を置いても皆で「ハロードラッグ」に走った(これは今でも変わらないビバの習慣でもあるが)。初めて食べるおいしいお米に若者達はお代わりを繰り返し、雪解けと共に日増しに元気がつき、顔色も良くなっている。
 お腹を満たしてくださる方が一方にいれば、長野県の57歳の主婦、小西ときこさんはご自分の初めての創作童話「都会のえりか」(新風社)にお便りを付けて送って下さった。「生きてさえいれば、いつか必ず、幸せな日がきて、笑える事があるものです。若者は、自分の命がかけがいのない尊いものと認識せず、簡単に命を絶ってしまうことがあります。人生は長いし、世の中は広くて無限の可能性があることを知って欲しくてこれを書きました。」ビバの若者全てに,小西さんの思いを受けとめて貰いたい。感想文を小西さんに送りたいと、今順番に読んでいる。
 埼玉県熊谷市の28歳の娘さん、山口県萩市の高校中退後の娘さんの事でそれぞれ悩んでいるお母さんからの切実な相談も寄せられた。東京の大学2年に在学している埼玉県の女性は、対人不安で通学できない状態打開の為、ビバへの入所を希望し、4月5〜7日の3日間試験入所で滞在する事になった。(3月3日付日曜版ご希望の方は、ご一報下さい)
 
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11  寝正月
 
 ビバハウスでは、今年初めて年末年始の7日間、ハウスを閉めることが出来た。一昨年9月1日に開設以来、1年4ヶ月の間に、若者達は目を見張るような急速な成長を果たし、8人それぞれが独自の計画を立て、行動する事ができるようになったお陰。事実、ある若者は、ニセコのペンション・ガンバでゆったりと自分の時間を過ごし、ある若者は自宅で家族と共に過ごし、雪かきや家事の手伝いをした。また別の若者は、ニセコやトマムでスキーを楽しみ、自宅が本州の若者は、両親と親戚の方が逆に教育福祉村に来られて、雪に包まれたログハウスでまきストーブを囲みながらのお正月を過ごした。昨年のお正月のことを思えば、まるで夢のよう!12月30日朝10時、若者達と“さようなら”、“また来年”の言葉を交わし見送った後、私を襲ったのは睡魔。でもやらなければならない事は山ほどある。せめて夫と母(85歳、昨年10月20日からビバで生活)との3人家族だけになった時ぐらいは、妻らしい事、主婦らしい事をしなくてはとは思いながらも、体がもう言う事を聞かない。12月31日、夕方5時過ぎやっとの思いで年越しの為の買い物を済ませ帰って来たものの、意識はもうろう、体はヨタヨタ、もう立ってもいられずベットへ身を投げ出したが最後コンコンと眠り続け、年越しも元旦も見事になくなった。でもこの眠りが、私をよみがえらせてくれた。
 若者達が自立に向けより高いハードルに挑戦できるよう、全力をあげて支援できるだけの新たなエネルギーを私たちもこの間充電する事が出来た。必ず休んで「身を太らさなければダメだ」と厳しく指摘してくださった運営委員会の皆さんに今はただ感謝。
  1月6日朝10時、2002年のビバハウスオープン。若者達は三々五々ビバに到着。再会を喜び合い、生活開始。翌日からは直ちに労働開始。現在、若者達のこれからの目標である「仕事」への1ステップとして、北海道が行う「精神保健職親事業」の認定をこの程受けたお隣仁木町の岩田椎茸園(余市郡仁木町南町7丁目68番地−岩田駿二氏経営)へ正規訓練生として3名、アルバイトとして2名を、毎朝8時半に夫が車で送り出している。安い中国産の椎茸が大量に日本の商社によって輸入され(もっとも昨年12月6日付けの「週刊文春」では、これには大量のホルムアルデヒドなどの毒物が検出されたとの記事もある)、国内の生産者は大変な困難に直面していて、岩田さんも一時は栽培を中止するつもりだったとの事だが、若者達にとって、冬も暖かいところで働ける掛け替えのない「職場」を何としても持続させて頂きたいと願っている。幸いな事に、若者達の父母の皆さんも、生き生きと働く若者達の姿に感激し、できる限りの支援を約束して下さっている。ぜひビバの若者達も栽培に参加している安全でおいしい・北の大地で取れた椎茸をいつか味わって頂ければと願っている。
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10 ビバと私の救いのエンジェル〜突然の可愛い来訪者Yさん 
 
 16歳の女の子Yさんがお父さんと一緒にビバハウスを訪れたのは、赤、黄、オレンジ、茶と色とりどりの木の葉が、時折強い風に吹かれて素敵な舞を見せてくれた9月29日の事だった。体調を崩し稚内の高校を2年の途中で中退し、札幌の病院に通院中だが、体調も回復に向かい、来春には北星に編入を希望し学校見学に来た。学校で面談した先生と、札幌の病院の先生の両方からビバハウスの話を聞かされて、是非ともそういうところに入りたいと、親子共々訪ねて来たのだった。Yさんは色白で、目が可愛い。金髪もとてもよく似合うし、人なつこい笑顔が何よりいい。その日、彼女は自分の体がすっぽり入ってしまうほどの大きなバックを手にしていた。開口一番、「今日からビバハウスに居させて下さい、ボランティアで何でもします。頑張ります。」
 私も夫も、今回は見学訪問と受け止めていたので、彼女の言葉に、実のところ戸惑った。女性の部屋は既に全部ふさがっていたから。でも、対話が進むにつれ、彼女の言葉はまさに彼女の決意表明そのものであり、高校中退後外にでる事もなく家に居て、どんどん落ち込んでいくばかりの自分からの脱出宣言である事が分かり、私たちの心は惹かれた。退職後も北星への思い入れが強い私には、北星で再び高校生活を自分のものにしたいという彼女の思いを是非ともかなえてあげたいという気持ちになっていった。
 「横になれる場所なら、どこでもかまわない」という彼女の言葉通り、彼女のビバでの生活は、まだ何も片付いていない2階の隅っこに大至急ベットを用意しての状態から始まった。そして、自分の荷物を運び終わったその瞬間から働きづめ。「私にまかせて」と 食事作りを引き受け、今日までやりぬいている。タマゴ焼きと煮物が特に上手だ。16歳の女の子の出来ばえとはとても思えない。彼女の料理の前で私は素直に脱帽!そんな私の姿を見て「なんも、なんも」と言いながら、彼女はにこっと笑う。もうこれが後わずかで2月になる。料理の苦手な私にとって、朝食、昼食作りの彼女の援助にどれほど助けられていることか。
 お陰さまで、丸1年1日も休みなしで働き続けてきた体の疲れも少しずつほぐれつつある。さらに嬉しいことに、体と心に元気が戻った分、夫が責任者でやっているビバの会「教育相談所」の応援が出来るようになって来たことだ。最近は北星の在校生や父母達からの相談事が特に多い。在校生達は、電話だけでなく、1人で、時には3〜4人固まって、ビバにやって来る。そして、胸に詰まっている思いをさらけ出し、食事作りを手伝い、みんなで食事をし、帰る頃には、一人一人の生徒たちの顔に笑顔が戻る。「来て良かった!また来たい!」といって帰って行く。
 こうした場面でもYさんはいつも明るい笑顔を振りまき、相談者の心を解きほぐす重要な役割を果たしてくれている。彼女にとって当初最大の悩みであった「自分は北星に入れたとしても、友達を作れるだろうか?」という不安もビバを訪れる在校生達との交流を通して、徐々に取り除かれつつある。ビバハウスがお互いを生かし、生かされる場に成りつつある のを肌で感じれるって、すごく嬉しい!
 
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9  ビバと私の救いの主  ─今輝く池田賢吾君─
 
 ビバの若者達が、毎週土曜日と日曜日に心待ちにしている人がいる。その人は北星余市高校3年生の池田賢吾君だ。北星余市に在職中の35年間、食事の世話一切を同居していた母に頼ってきた私にとって、ビバの生活で一番の苦労は三度の食事作りだった。昨年9月1日オ−プンして、早くも1ケ月後には、なれない水仕事で手が荒れ真っ赤にはれ上がり、包丁を持つのもままならない状態になった。そんな時、ビバに救いを求めてやって来たはずの池田君に、救われたのは実は私だった。
 というのは、池田君は中学校時代、昼夜逆転の生活だった。それで夜中の食事は自分で作らなければならなかったたため、料理に関心を持つようになった。池田君は私のひどい手を見て、即座に食事ボランティアを申し出てくれたのだった。彼の得意料理はスパゲティと肉料理。ビバの若者達は、彼の手際よさにびっくり、味の良さに大喜び。ついには、人づてにビバのスパゲティのおいしさを伝え聞いて、食材持参でビバを訪れ、一緒に食事をしてくれる人まで出た。是非またご馳走してほしいとの言葉に、14人分の食事を初めて作った池田君も、疲れを忘れてにっこり。こうして池田君は、私にとっても、ビバの若者達にとっても、なくてはならない存在になっていた。
 一方、池田君は今年の5月12日、倶知安で行われた国際ソロプチミスト後志地区5クラブ合同主催の「21世紀に生きるあなたは何に燃えていますか?」というテ−マのもとに開かれた「国際ユ−スフォ−ラム」に参加、ビバでの体験をふまえた意見を発表、優秀賞を得た。優秀賞受賞者として、8月に苫小牧で行われた同ソロプチミスト全国北リジョン大会(北海道・東北ブロック)に後志地区の代表として参加。さらに7月3日、高文連後志地区弁論大会を兼ねた校内弁論大会で、課題の部「輝きたい」に出場して最優秀を受賞し、16日から17日にかけて阿寒で行われる全道大会への出場権を手にした。
 出発前日の15日の夕食後、教育相談でビバを訪れていた札幌からのお母さんも交え、全員で壮行会を兼ねた弁論リハ−サルの会を開いた。池田君の弁論に対して一人ひとりからの激励と注文が出された。 「私の思いと一緒だ。すごく共感した」「子どもの目から見れば、親はどう見えるのかを教えられた。同じ年齢の子を持つ母親として、深く考えさせられた」「聴衆を方をしっかり見て話して」「声がすごくいい。本番でもこの調子で頑張って」などの声が続いた。池田君からも「本番では、ビバのみんなの代弁者のつもりで頑張ります」と決意表明。みんなは大きな拍手で、それぞれ池田君に託す思いを表した。
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8  そして、誰もいなくなった
 
台風15号、16号が日本上空で荒れ狂い、大雨と強風をもたらし、人命を 奪ったばかりでなく、全国各地に大きな被害を及ぼした。余市でも崖崩れや果樹園、畑への冠水、家屋の床下浸水などの被害に見舞われた。ピパの若者達も、この間自然の猛威を直に感じつつ外へも出られず、じっと我慢の子の日が続いた。
 それだけに5日ぶりにからっと晴れ、青空が広がった13日には、若者達は待ってましたとばかりに村の農場に、見習い先の美容室に、アルバイト先の蘭島のレストランと町内の耳鼻咽喉科に、小樽の病院のデイケアにと出かけてしまった。近くのアヒルなど水鳥のたくさんいる農家に援農に行く若者も、私たちの「行ってらっしゃい」の声に送られて元気いっぱいの笑顔で自転車で出て行った。ふと気がつくと、ビパハウスには私と夫の二人だけ!
 ところで今日20日はビバにとって大変重要な日だった。去る17日の理事会の決定に基づき、北海道(倶知安保健所)に対し、余市町を通じて、「平成 14年度グループホーム実施計画書」を提出させて頂いたからだ、ここに至るまでの余市町民生部福祉課、北海道倶知安保健所地域保健推進課精神保健福祉係・さらに小樽市立第2病院精神神経科ケースワーカーの皆様の懇切丁寧なご指導・ご助言に心より感謝。「グループホーム」としての認定を受けることは、人件費補助などの経済的安定に役立つばかりではなく、社会的には重大な問題とされながら、これまで必ずしも行政の光の当たらなかった「引きこもり」問題への行政的対応の大切な第一歩となる。その意味からも認定を心待ちしている。
 
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7 予期せぬ出来事
 
 照り輝く真夏の太陽が、ビバの若者達の心を開放的にし、体を青空の下へと引き出してくれている。
  ビバハウスでは、みんなが楽しみにしている行事の一つに誕生会がある。誕生月の人の希望を取り入れて、みんなで話し合って企画を決めている。
 
  6月には、T君のアルバイト先、蘭島のハンバーグ・レストラン「ロビン・フット」で、同君お勧めのメニューに舌づつみ。その後、余市駅前のカラオケヘ。2月の時以来、みんな自分ののどに自信を持った。カラオケが大好きになった。人前で大きな声で歌えるようになればもうしめたもの。実は、誕生会に先駆けて、月初めには、若者達だけで、練習を兼ねてカラオケに出向いた事もある。それも料金が安いからと、真昼間歩いて余市駅前まで出かけたと聞いてこちらの方がびっくりした事もある。数ヶ月前、それぞれが長い厳しい引きこもりの生活からの脱出を願い、初めてビバにようやくたどり着いた時の彼らの姿との余りの違いに、しばし圧倒されるような思いがした。
 
  7月には誕生月の若者が2人いた。さて今回の企画はと、夕食にみんなが顔を合わせる度に話題になった。"温泉がいい"、"ニセコ方面へのドライブがいい"、"毎日暑いので海水浴に行きたい"など等の案が出されたが、決まらないでいた。誕生月の若者から、"地球岬の水族館に小さい時行ったきり行った事がない。評判の小樽水族館を見てみたい"との希望が出て、全員の賛成で決定した。
  ビバハウスを離れ、外界との接触の機会が多くなってきた若者達を頼もしく思う傍ら、今回いきなり不特定多数の中へ入って行く案には不安がなかった訳ではなかった。あまり人ごみの多そうな土日は避ける事にして、7月24日(月)が誕生会の日に決まった。再び蘭島の「ロビン・フット」で今度はお昼のメニュー。T君が下ごしらえをしているお勧めのハンバーグやステーキに大満足。2台の車で小樽水族館へ。予想通り当初館内は見学者も少なく、ゆっくりと自分達のペースで見学出来みんな大喜び。ところが・・・・イルカのショウーやペンギン、オットセイのショウ〜見学に移ってからのみんなの表情は一変した。それぞれの顔からさっきまでの笑顔が消え、こわばったままになった。うつむいたまま首を上げようともしなくなった。
  あまりにも突然の若者達の変化に私達は戸惑った。帰りの車内は来る時とは一変し、自分から声を出すものもいなくなってしまった。気まずい沈黙のまま、ビバハウスに戻り、それぞれが自分の部屋にこもってしまった。私は若者達一人一人を個室に訪ね、彼らに突然何が起こったのかを聞いて回った。大勢の同世代の幸せそうなカップルや子供ずれの若い夫婦に突然広い会場で出会い、本当にショックを受けつらかった。輝いているような彼らと比べ現在の自分の惨めさをいやと言うほど味あわされた。あそこから逃げ出したかった。自分は今一体何をやっているのだろうと思うだけで自己嫌悪に落ち込んだ。これが若者達に共通の感情だった。
 彼らがこの落ち込み状態から立ち直るには、半月ほどの時間が必要だった。私達もこの間どうやって彼らを慰めてよいか分からず、胃の痛くなるような日々が続いた。これまでにずい分抵抗力をつけてきたと、私は思っていたのに・・・・。良かれと思い、現在のビバとしては思い切ってお金も時間もかけて実行した行事の結果に、私達の方がショックを受けた。だが彼らの期待に応えて、水族館に行った事が間違いだったとはどうしても思えない。但し、若者達にとっても、私達にとっても、これから乗り越えなければ成らない厚い壁が無限にあることを学ばされた1日であった事だけは間違いない。
 
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5 バイトが決まった 
 
 川のせせらぎが初夏の訪れを伝え、小鳥のさえずりとセミの声が耳にビンビン響きわたり、教育福祉村はいま、一面緑色でおおわれ、やわらかな風が行きかっている。
 自然界が長い冬の眠りから覚め、再び活気をとりもどすのとは反対に、ビバの若者たちは生気を失っていった。どうしたことかと心配し、一人ひとりとじっくり対話を重ねた。
 活気に満ち、一気に全てが動き始めるこの時期が、自分達には一番つらい。動き出せない自分の惨めさが、回わりの生気との対比で一番身にこたえる時だと言う。友達が欲しい、働きたいと願っても、何ひとつ実現できず、親には心配ばかりかけていて、自分は生きている価値がない、こんな自分は死んでしまった方がいいと思い続けている。夜眠れないから、朝起きれない、食欲もない、外にも出れない自分になっていると言う。
 時間をかけての語り合いの中で、ビバハウスに来る前のどうしようもない自分から、来てから少しだけ前向きになれた自分の変化を再確認できた。その時、若者達の瞳に生気がよみがえりつつあるのを感じた。
 分かりあえる友達がほしい。恋人がほしい。働ける場が欲しい。こうした自分の願いを焦らずひとつづつ実現させていこう。自分で努力する限り、私たちも全面援助を惜しまない。こう一人ひとりと約束し合った。
 5月20日、新聞折り込みで余市のチエ−ン店居酒屋Tでのアルバイトの求人情報をキャッチ。是非やってみたいという若者が出た。今こそ、意志あるところに道をつけるべく全面援助すべき時と、早速、履歴書を整えた若者に私も同行し、店長に面談を申し入れた。面談中にも希望者が次々と来る程の厳しい状況を背に感じつつ、誠心誠意ビバハウスの若者に就労のチャンスを与えて欲しいと訴えた。そして二日後、その若者に朗報が・・・。ビバの若者たちみんなが、自分のことのように彼のアルバイト決定を喜び、〃おめでとう!〃を連発し合った。 夕方4時半にビバを出て、夜中2時に帰って来る。こんな厳しいアルバイトだけれど、開始後一週間が経った。 彼のあとに続こうと、いま、再びビバの若者たちは一人ひとりが近い将来の夢を胸に、実現に向けて新たな努力の一歩をふみ出している。
 
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4 合気道開講    
 
 草木がこの一週間でいっきに緑色を増し、ビバハウスのまわりは生気に満ちあふれている。さらに嬉しいことには、ポカポカと暖かい日差しが毎日のようにビバハウスの若者を外へと誘い出してくれている。 何かを始めたい! 四月に入ってみんながそう思い始めた時、教育福祉村でブル−ベリ−の栽培に精を出す傍ら、札幌や北星余市高校で合気道の指導に当たっておられる栗原光朗先生から「ビバハウスの皆さんも合気道やってみませんか」と声をかけて頂いた。先生の熱っぽく語る言葉に引き込まれ、合気道がビバスコ−レ(ビバハウスの自主学習学校、近藤芳二校長)第一番目の開講の運びとなった。
 早速4月14日(土)には、合気道のビデオ学習会。ビバハウスの利用者はもちろんのこと、父母、北星の在校生合わせて16名が出席した。北星余市高校にお願いして道場を貸して頂き、21日には初稽古。みんな緊張しながらも、呼吸を整え、体を動かすことで全身がリフレッシュ。一週間後の28日には、利用者のお父さん、お母さん、お姉さんも特別参加。この日は安全な後ろへの転び方を教わった。 合気道で体を動かすことの心地好さを覚えた若者達は、二つ目の講座として、社交ダンスの開講を希望。ビバハウスの若者たちは、今まさに青春を生きようとしている。
 
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3 若者たちの春 
 
 暖かい春の日差しに誘われて、3月19日には解けた雪の隙間から、ふきのとうが顔を出し、20日にはビバハウス・オープン直後に飼い始めた若鶏がはじめての卵を産んだ。
 待ちに持った春がやってきた! ビバハウスの内にも外にも!!
 ビバハウスでは、オープンの時からの若者2人の他に12月に1人、1月に1人、2月に1人が加わって、現在では22歳から32歳までの若者5人が私たちと一緒に生活している。数が増えた事で、お互いがお互いから学びあい、刺激し合い、影響し合う機会が増えて、素晴らしい状況が生まれている。
 若者たちの提案で1月から実行に移されているペアを組んでの夕食づくりは、3月に入ってからは、朝食づくりにまで発展した。午前、午後の労働への参加者も増え、希望者は、町の体育館まで行ってもう5回も卓球を楽しんでいる。いずれはチームを組んで町民大会にも出たいなとの話も出ている。夕食後には、みんなで将棋やオセロを教え合いながら楽しんでいる,一人ひとりがぐんぐんと腕を上げている。異なる年齢の若者の集団である事が大きな意味を持ち始めている。
 みんなで一緒に遊べる事が、みんなで一緒に語り合える事へと発展して行っている。みんなの今一番の関心事は、男女交際を含めた友達作り、人間関係作り、さらに就職の事で、全員でテーブルを囲んで1時間も2時間も語り合った事もあった。一人ひとりが自分の胸の内を語り始めた。何を求めているのかを語り始めた、友人、異性の友達、そして仕事ー一どうしたら自分のものにできるのか?
 そしてついに語り合った事で力を得た最年長の若者が、働く夢の実現目指して、その第一歩を歩みだした。ニセコにあるペンション・ガンバの伊藤さんの協力で働く場を提供して頂き、先日第1回目の体験を終えて帰ってきた。「行って良かったです。自分の世界が広がりました。」これが、彼がビバに着いて発した最初の言葉だった。そう語る彼の目には生気が溢れ、これまで何度も働いてはダメになり、すっかり失ってしまっていた自信を取り戻しつつあるのがはっきりと分かった。この体験に勇気を得て、彼は3月27日から2回目の挑戦に臨んでいる。成功を心から全員で願い、激励の夕食会で送り出した。
 彼の勇気ある行動に励まされ、次に続く年齢の若者が、「僕も働けるように成りたい!」と思いを定め、そのために働ける体と心をつくらなければと毎日励んでいる。
 
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2 若者たちの笑顔を誰よりも喜んでくれた人
     岡本正己さんの急逝を心よりお悔やみ申し上げます    
 
 1月末、夕食の時のことだった。ビバの正規メンバーになったばかりの最年長の若者が、「輪番で食事当番をしてはどうですか?」とポツリと一言。続いて「僕にも出来る事があったらやらせて下さい」「お茶椀洗いなら出来るから私やる」と他の若者たちも。
 昨年9月1日のビバハウス・オープンの日からの、やりなれない台所仕事で、もともと弱っていた肩や腕がやられ、しまいに親指が痛んで物を握れない状態になっていた私は、彼らの一言一言が涙の出るほどうれしかった。
 一人一人の自発的な申し出で、翌日からの当番表が出来上がり、即行動に移された。既にもう数週間確実に実行されている。お互いに自分のできる事を担い合い、協力し合って共同生活を創り上げていく。そして「ビバハウス」が、何時か「ビバホーム」になっていくことを願っていた。その願いが一歩一歩実現に向かっているのを肌で感じている。若者たちがこんなに早く、ここまで元気になれたのには、大きな訳があってのことだった。
 岩内で長い間パン工場を経営し、誰からも「岡パン」「岡パン」と親しまれてきた岡本正己さんご夫妻は、ビバハウスの事を知ってから、この数ヶ月3日に空けずと言うほど度々ビバを訪れ、若者たちを励ましてくれていた。そのたびに必ずと言っていいほど、一度には食べきれないほどの美味しい自家製のパンをお土産に下さった。
 だんだんと若者ばかりではなく、ビバで飼っているビーグルとハスキーの雑種の子犬、「ビバ」にも、11羽の鶏にもそれぞれにお土産があたるようになった。奥様の心を込めた手料理に、若者たちは「こんなに美味しいもの初めてだ」とはしゃぎながら箸を振るった。それはまるで生きている喜びを一口ごとに全身で味わっているようだった。
 突然の心筋梗塞で亡くなった2月13日の前日も、岡本さんはビバの著者たちとともに居ました。岡本さんは、「ビバの若者たちがいく度に元気になり、いい笑顔になっていくのを見ると自分も元気になる。この若者たちのために、自分のできる全てのことをやってあげたい。彼らが一日も早く社会でひとり立ちできるように」と、何度も奥様に語っていたとのことでした。岡本さんのご冥福を心から祈らせて頂くとともに、岡本さんのご意志をしっかりと受け止めて、これからも若者たちとともに歩む決意です。
 
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1 若者たちに働く場を    
 昨年九月一日にオープンして四ヶ月が過ぎました。現在4人の若者と共同生活をしていますが、一人一人それぞれの目標に向かって努力がなされ、その日々の変化が私たちにとって大きな喜びであり、「よーし、今日も頑張るぞ」という気持ちにさせてくれています。
 新聞などでビバハウスのことを紹介頂いたことがきっかけで、これまでに様々な相談がありました。青少年にとって、今がどれほど生きにくい、先の見えない時代なのかを改めて思い知らされました。このような社会を作り出してきた大人の一人として、責任を感じずにいられません。日本の未来を背負って立つ若者たちが、再び笑顔と元気を取り戻し、社会へ一歩踏み出すその日が、一日も早く訪れることを願う毎日です。実際に若者たちとこの間暮らしてみて、どうしても働く場をつくらなければとの思いを強くしています。「はたらくこと」「はたらけること」が若者たちの社会参加にとってどうしても必要な最初の一歩に他ならないからです。春の訪れまでに、どんなささやかでもよい、まず「皆が出来る事に挑戦してみよう」が現在のビバの合い言葉です。
 幸いな事に支援者の皆さんから次々にいろいろな提案を頂いています。ビニールハウスで冬でも出来るミニトマトを作ってはどうか?(近々仁木の農家の方と相談する事になっています。)手作りのベーコン製造はどうか?(1月18日には神奈川県から北星高校の在校生のお父さんが打ち合わせに来ます。)岩内のおいしい岡パンのパンとケーキを出す野外喫茶店をフルーツ街道筋に出したらどうか?(自家製の果物や野菜の売店を出している農家の人とタイアップしてはどうか?)などなど、いずれも心躍る取り組みです。
 
 私たちのささやかな試みを心を込めてご支援くださっている多くの方々のご期待に応えられるよう、今つぎのステップへの準備にかかっているところです。今後ともどうぞ変わらぬご指導とご鞭撻を宜しくお願いいたします。
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